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「錆びた館」 http://kakudou.moto-chika.com の日替わり日記部分のみの分館
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2024/11/22 (Fri)
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2018/12/12 (Wed)

映画としては前半から中盤にかけて、第一部の主人公っぽいイクメンパパのくだりがちょっと長い。監督お得意のスタイリッシュ映像で数々の場面を渡っていくのですが、それぞれの場面でちょっと飽きが来たところでコワいものが差し込まれる、という塩梅はわかるにしても、そこまでもってないんじゃないかな。と思うのはこちらがホラーを期待してるからなんでしょうか。とばかりは思えない。
先に見た人たちから「面白かった」「怖かった」「が、ホラー映画じゃない」という声をいくつも目にしました。
言うまでもなく原作『ぼぎわんが来る』はれっきとしたホラー小説。映画でも細かい差はあるものの大筋は原作に沿ってます。なのになぜホラー映画ではないという感想が出てくるのか。
ホラー的な場面はちゃんとあります。演出力不足で怖くならない、ということはこの監督にはありえない。好みはあるでしょうが間違いなく高いレベルの映像を作り出す人なのです。
人物ドラマが弱いということもない。出演者もどの役にもピッタリはまった人たち。ポスターに写る主演の五人だけでなく、柴田理恵の霊能者や伊集院光のスーパー店長などまで。
ではなぜこの映画がホラー映画ではないと思われてしまうのでしょうか。
一つには、ホラー的な事象を扱いながら、「怖がらせるための演出」をほぼしていないから、ではないかと思います。いくつかの事象はそれこそホラー映画のようにドッキリするタイミングで起きるのですが、そこにあるのはビジュアルとしてのショックで、それによって見る人を怖がらせるためではないように思われるのです。
ほかの場面にある不安や緊張感も「ホラー映画的な」空気とは違うように見えます。
細々と考察していくと長くなりそうなので、適当に切り上げますが、ここで問題に思うのは「ホラー映画的な作り方をしていない」から「ホラー映画ではない」のか、ということ。
小説におけるホラーは、近年怪談との比較もあって「非日常的な事象が起き、読む人を怖がらせるために書かれたもの」というのが一般的な定義となってきているようです。(怪談は必ずしも人を怖がらせるためではない、人を怖がらせるために書かれたものでも非日常的な要素がなければホラーと言うよりサスペンス、ということからの対比)
では。ホラー映画とは何なのか。それは必ずしも人を怖がらせるためでなくてもよいのではないでしょうか。

さっきたまたまCSで『高慢と偏見とゾンビ』放映されてて、あれなどはあきらかにホラーでしかなしえない世界を描いているにもかかわらず、怖がらせるために作られた映画ではないように感じます。しかし『ホラー映画』であることは間違いないのではないでしょうか。
特に論旨を一貫させることもなく唐突に自分のことになりますが、じゃあ自分はなにを作りたいかと言うと、『怖い』『ホラーまたは怪奇映画』ではないか、とは思います。
もう一つ蛇足的に付け加えさせてもらうと、『来る』鑑賞中、これに一番近い映画は中川信夫『地獄』ではないかと思ったのでした。どこが、というのを説明するとまた長くなるので省きますが、あの映画の直系の子孫はなかなか見ない気がする、というのがこの映画で解消されたのでした。
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