「錆びた館」
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の日替わり日記部分のみの分館
■
訃報:柴尾英令
2018/04/04 (Wed)
ちょうど40年前1978年、わかりやすく言うと最初のガンダムが放映された年。
東京の大学に行ったもののゴールデンウイークには北九州に帰省して母校の東筑高校文芸部・演劇部に行ってみた。当時の文芸部長女子が『角銅さん聞いて!この人、名前、豊太郎ち言うんよ!」と紹介されたのが新入生で文芸部に入ってきた柴尾豊太郎だった。
実家が酒屋ということでその後帰省したときのOBの飲み会で酒の調達に協力してもらったりした。
数年後、早稲田に進学してきてからは時折麻雀をやってたり。
同じ東上線ということもあり割と会ってたりしたと思う。
そのうちにゲームライターなどの仕事を始めたと聞き、そのころから柴尾英令を筆名としていた。
さらにゲームクリエイターになったときには『レナス』などで少し手伝いもさせてもらった。
パソコン通信やインターネットが広まるとそちらでも交信することも増えた。
住まいの近くにシネコンが出来たということで知人を集めての映画鑑賞会、飲み会も開いていた。毎回参加したわけでもないが、20人近くの映画のチケット抑え、飲み会の予約もし、とけっこう大変なのを楽しんでやってたようだった。
それが回を重ねても何か満たされない物があったように思う。
そのうち映画会はなくなってしまったが、東筑文芸部演劇部の東京にいるものでの飲み会などでも時々集まったりしていた。1999年の2月まだ寒いときに新宿で飲み会して終電過ぎてどうしようというのがLoftPlusOneで今も続くオールナイト怪談トークライブ『新耳袋』の第一回に行くきっかけだった。柴尾もその後二三回来ていたが、新耳袋4巻を一夜で読んだら何か起きたようでそれからは来なくなった。
LoftPlusOneではその後だったか菊地秀行さんのトークライブに柴尾の早稲田ミステリクラブの先輩飯野文彦さんがでるというのでそっちにも行き始めた。そちらも数年すると柴尾は来なくなったがこちらはまだ行き続けてる。
九州で演劇を続けてる後輩の東京公演があるとまた皆で集まって観劇後飲み会をしたりもした。そうしたなかで柴尾よりは一つ上の学年で、アニメの演出をやってた鶴田寛が肺がんで亡くなったのが震災の前年だ。だれも知らないうちに遺体が引き取られてたりしてて葬儀も行けず終いだったので集まって飲んだりするだけだった。生きとるうちにちゃんと会って飲んだりしとかないかんね、と言い合ったものだった。
その頃からTwitterに書いてた映画の感想を水道橋博士のメルマガに連載するようになり、去年はそれが書籍化されトークイベントもやったようだった。たまたま東上線の車内であったのが去年秋。そのトークイベントに出席された斉藤守彦さんが急死されたのがショックだったと。その時もレンタル倉庫の整理に来てたとのことで、終活の始まりみたいなものだと言ってた。
最後にあったのは2月頃か、東武練馬のシネコンと同フロアのサブウェイだったかな、映画の合間に食事してたようで、こちらはこれから見に行くところで、すれ違いくらいにあの映画どう?などと話しただけだった。
4月1日まではいつものようにツイートしている。2日に打ち合わせに来ず連絡もないことを不審に思った相手が自宅まで行ってみたら亡くなってたとだけ伝え聞いた。
本を出した頃からそのトークイベントに出たあたりで、かつての何か満たされないものがそうでもなくなってきてたようにも思えたが、どうだったのかな。
東京の大学に行ったもののゴールデンウイークには北九州に帰省して母校の東筑高校文芸部・演劇部に行ってみた。当時の文芸部長女子が『角銅さん聞いて!この人、名前、豊太郎ち言うんよ!」と紹介されたのが新入生で文芸部に入ってきた柴尾豊太郎だった。
実家が酒屋ということでその後帰省したときのOBの飲み会で酒の調達に協力してもらったりした。
数年後、早稲田に進学してきてからは時折麻雀をやってたり。
同じ東上線ということもあり割と会ってたりしたと思う。
そのうちにゲームライターなどの仕事を始めたと聞き、そのころから柴尾英令を筆名としていた。
さらにゲームクリエイターになったときには『レナス』などで少し手伝いもさせてもらった。
パソコン通信やインターネットが広まるとそちらでも交信することも増えた。
住まいの近くにシネコンが出来たということで知人を集めての映画鑑賞会、飲み会も開いていた。毎回参加したわけでもないが、20人近くの映画のチケット抑え、飲み会の予約もし、とけっこう大変なのを楽しんでやってたようだった。
それが回を重ねても何か満たされない物があったように思う。
そのうち映画会はなくなってしまったが、東筑文芸部演劇部の東京にいるものでの飲み会などでも時々集まったりしていた。1999年の2月まだ寒いときに新宿で飲み会して終電過ぎてどうしようというのがLoftPlusOneで今も続くオールナイト怪談トークライブ『新耳袋』の第一回に行くきっかけだった。柴尾もその後二三回来ていたが、新耳袋4巻を一夜で読んだら何か起きたようでそれからは来なくなった。
LoftPlusOneではその後だったか菊地秀行さんのトークライブに柴尾の早稲田ミステリクラブの先輩飯野文彦さんがでるというのでそっちにも行き始めた。そちらも数年すると柴尾は来なくなったがこちらはまだ行き続けてる。
九州で演劇を続けてる後輩の東京公演があるとまた皆で集まって観劇後飲み会をしたりもした。そうしたなかで柴尾よりは一つ上の学年で、アニメの演出をやってた鶴田寛が肺がんで亡くなったのが震災の前年だ。だれも知らないうちに遺体が引き取られてたりしてて葬儀も行けず終いだったので集まって飲んだりするだけだった。生きとるうちにちゃんと会って飲んだりしとかないかんね、と言い合ったものだった。
その頃からTwitterに書いてた映画の感想を水道橋博士のメルマガに連載するようになり、去年はそれが書籍化されトークイベントもやったようだった。たまたま東上線の車内であったのが去年秋。そのトークイベントに出席された斉藤守彦さんが急死されたのがショックだったと。その時もレンタル倉庫の整理に来てたとのことで、終活の始まりみたいなものだと言ってた。
最後にあったのは2月頃か、東武練馬のシネコンと同フロアのサブウェイだったかな、映画の合間に食事してたようで、こちらはこれから見に行くところで、すれ違いくらいにあの映画どう?などと話しただけだった。
4月1日まではいつものようにツイートしている。2日に打ち合わせに来ず連絡もないことを不審に思った相手が自宅まで行ってみたら亡くなってたとだけ伝え聞いた。
本を出した頃からそのトークイベントに出たあたりで、かつての何か満たされないものがそうでもなくなってきてたようにも思えたが、どうだったのかな。
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