「錆びた館」
http://kakudou.moto-chika.com
の日替わり日記部分のみの分館
2018/12/29 (Sat)
最初に名前を覚えたのは国産アニメで「遊星少年パピイ」「遊星仮面』輸入アニメでは「トムとジェリー」「キングコング」。あるいは東映まんがまつりの「アンデルセン物語」「長靴をはいた猫」そして「ムーミン」「どろろ」では主題歌の歌手としてずっとその名前を目にしていました。
自分が最初に東映動画(当時)で仕事に入ったのが「パタリロ」劇場版の制作進行で、幸運なことにアフレコも見に行けて、マライヒ役の藤田さんを見ることもできました。
演出になってから間もない頃に「新ビックリマン」ピアマルコ役、このときにいろんなことを教わりました。特に、マルコが会ったことのない母に思いをはせる回を担当したのですが、その直前に藤田さんのお母様が亡くなられたばかり。そんなことは微塵も感じさせない、プロの仕事でした。新人演出だったけど、アフレコ後の飲み会でも楽しく過ごさせていただきました。
「ダイの大冒険」打ち上げは現在ロフトブラスワンとなってる新宿歌舞伎町地下のパブ。共演の冨永みーなさんとザ・ピーナッツを歌われたのがもう最高の思い出。「地獄先生ぬ~べ~」でもお世話になり、「デジモンアドベンチャー」の八神太一は藤田さんしか考えられませんでした。他の役はすべてオーディションで、藤田さんとのバランスで考えました。その打ち上げで、アグモンの坂本千夏さんと、前に共演されてた「キャッツアイ」の主題歌歌ってくださったのもすごく楽しい思い出で。あまりアニメの歌を歌われることはなかったとのことですがそのときは気分いいから歌っちゃおうかな、のようなことで「一休さん」も歌われたり。
そのときにリクエストしたいけど遠慮してたのがあるんですよ。「デジモンアドベンチャー」は、子供の頃からその頃までに自分が見たり聞いたり読んだりした面白いものすべてをできるだけ入れてみよう、としたシリーズでしたが、(参照「錆びた館」本館当時の予告頁)一つだけ入れなかった作品があります。「どろろ」これは原作もアニメも好きすぎて、リスペクト要素だけを抽出することができずどうしても入れられなかった。その主題歌も、一度でいいからぜひとも生で聞いてみたかったのが、言い出せずじまいでした。
何しろ自分が子供の頃から目にし、聞いていた声なのでずっとお姉さんだと思っていたのが、じつはそんなに年が違うわけでなないと改めて知ったのも番組が終わる頃。その頃にやっと普通に色んな話もできるようになり、「トムとジェリー」のころはまだ中学生だったと聞いて驚いたりしてたのです。
最後にお会いしたのが「デジモンクロスウォーズ」最終回近くの歴代主人公が揃う回と、PSP版「デジモンアドベンチャー」の収録の頃かな。放映当時のように声が出てないんじゃないかと心配されてたようですが、そんなこと全然なくて大丈夫だったじゃないですか。
いろんなアニメ作品、あるいは洋画や海外ドラマの吹き替えの多数の作品の中でも、太一が藤田さんの最後の主役作品となったのかな、それにふさわしい作品になってたとしたらほんとに藤田さんのおかげです。
本当にありがとうございました。
最初に名前を覚えたのは国産アニメで「遊星少年パピイ」「遊星仮面』輸入アニメでは「トムとジェリー」「キングコング」。あるいは東映まんがまつりの「アンデルセン物語」「長靴をはいた猫」そして「ムーミン」「どろろ」では主題歌の歌手としてずっとその名前を目にしていました。
自分が最初に東映動画(当時)で仕事に入ったのが「パタリロ」劇場版の制作進行で、幸運なことにアフレコも見に行けて、マライヒ役の藤田さんを見ることもできました。
演出になってから間もない頃に「新ビックリマン」ピアマルコ役、このときにいろんなことを教わりました。特に、マルコが会ったことのない母に思いをはせる回を担当したのですが、その直前に藤田さんのお母様が亡くなられたばかり。そんなことは微塵も感じさせない、プロの仕事でした。新人演出だったけど、アフレコ後の飲み会でも楽しく過ごさせていただきました。
「ダイの大冒険」打ち上げは現在ロフトブラスワンとなってる新宿歌舞伎町地下のパブ。共演の冨永みーなさんとザ・ピーナッツを歌われたのがもう最高の思い出。「地獄先生ぬ~べ~」でもお世話になり、「デジモンアドベンチャー」の八神太一は藤田さんしか考えられませんでした。他の役はすべてオーディションで、藤田さんとのバランスで考えました。その打ち上げで、アグモンの坂本千夏さんと、前に共演されてた「キャッツアイ」の主題歌歌ってくださったのもすごく楽しい思い出で。あまりアニメの歌を歌われることはなかったとのことですがそのときは気分いいから歌っちゃおうかな、のようなことで「一休さん」も歌われたり。
そのときにリクエストしたいけど遠慮してたのがあるんですよ。「デジモンアドベンチャー」は、子供の頃からその頃までに自分が見たり聞いたり読んだりした面白いものすべてをできるだけ入れてみよう、としたシリーズでしたが、(参照「錆びた館」本館当時の予告頁)一つだけ入れなかった作品があります。「どろろ」これは原作もアニメも好きすぎて、リスペクト要素だけを抽出することができずどうしても入れられなかった。その主題歌も、一度でいいからぜひとも生で聞いてみたかったのが、言い出せずじまいでした。
何しろ自分が子供の頃から目にし、聞いていた声なのでずっとお姉さんだと思っていたのが、じつはそんなに年が違うわけでなないと改めて知ったのも番組が終わる頃。その頃にやっと普通に色んな話もできるようになり、「トムとジェリー」のころはまだ中学生だったと聞いて驚いたりしてたのです。
最後にお会いしたのが「デジモンクロスウォーズ」最終回近くの歴代主人公が揃う回と、PSP版「デジモンアドベンチャー」の収録の頃かな。放映当時のように声が出てないんじゃないかと心配されてたようですが、そんなこと全然なくて大丈夫だったじゃないですか。
いろんなアニメ作品、あるいは洋画や海外ドラマの吹き替えの多数の作品の中でも、太一が藤田さんの最後の主役作品となったのかな、それにふさわしい作品になってたとしたらほんとに藤田さんのおかげです。
本当にありがとうございました。
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2018/08/17 (Fri)
まだ67歳とか。
仕事では『ダイの大冒険』『金色のガッシュベル!!』『冒険王ビィト』『トリコ』などでお世話になりました。去年の今頃は『タイガーマスクW』でまだ全然お元気でしたのに。
いろいろ代表的な役も多いでしょうが、『CSI:マイアミ』ホレイショ・ケインがとても素敵でした。
ありがとうございました。
仕事では『ダイの大冒険』『金色のガッシュベル!!』『冒険王ビィト』『トリコ』などでお世話になりました。去年の今頃は『タイガーマスクW』でまだ全然お元気でしたのに。
いろいろ代表的な役も多いでしょうが、『CSI:マイアミ』ホレイショ・ケインがとても素敵でした。
ありがとうございました。
■
訃報:柴尾英令
2018/04/04 (Wed)
ちょうど40年前1978年、わかりやすく言うと最初のガンダムが放映された年。
東京の大学に行ったもののゴールデンウイークには北九州に帰省して母校の東筑高校文芸部・演劇部に行ってみた。当時の文芸部長女子が『角銅さん聞いて!この人、名前、豊太郎ち言うんよ!」と紹介されたのが新入生で文芸部に入ってきた柴尾豊太郎だった。
実家が酒屋ということでその後帰省したときのOBの飲み会で酒の調達に協力してもらったりした。
数年後、早稲田に進学してきてからは時折麻雀をやってたり。
同じ東上線ということもあり割と会ってたりしたと思う。
そのうちにゲームライターなどの仕事を始めたと聞き、そのころから柴尾英令を筆名としていた。
さらにゲームクリエイターになったときには『レナス』などで少し手伝いもさせてもらった。
パソコン通信やインターネットが広まるとそちらでも交信することも増えた。
住まいの近くにシネコンが出来たということで知人を集めての映画鑑賞会、飲み会も開いていた。毎回参加したわけでもないが、20人近くの映画のチケット抑え、飲み会の予約もし、とけっこう大変なのを楽しんでやってたようだった。
それが回を重ねても何か満たされない物があったように思う。
そのうち映画会はなくなってしまったが、東筑文芸部演劇部の東京にいるものでの飲み会などでも時々集まったりしていた。1999年の2月まだ寒いときに新宿で飲み会して終電過ぎてどうしようというのがLoftPlusOneで今も続くオールナイト怪談トークライブ『新耳袋』の第一回に行くきっかけだった。柴尾もその後二三回来ていたが、新耳袋4巻を一夜で読んだら何か起きたようでそれからは来なくなった。
LoftPlusOneではその後だったか菊地秀行さんのトークライブに柴尾の早稲田ミステリクラブの先輩飯野文彦さんがでるというのでそっちにも行き始めた。そちらも数年すると柴尾は来なくなったがこちらはまだ行き続けてる。
九州で演劇を続けてる後輩の東京公演があるとまた皆で集まって観劇後飲み会をしたりもした。そうしたなかで柴尾よりは一つ上の学年で、アニメの演出をやってた鶴田寛が肺がんで亡くなったのが震災の前年だ。だれも知らないうちに遺体が引き取られてたりしてて葬儀も行けず終いだったので集まって飲んだりするだけだった。生きとるうちにちゃんと会って飲んだりしとかないかんね、と言い合ったものだった。
その頃からTwitterに書いてた映画の感想を水道橋博士のメルマガに連載するようになり、去年はそれが書籍化されトークイベントもやったようだった。たまたま東上線の車内であったのが去年秋。そのトークイベントに出席された斉藤守彦さんが急死されたのがショックだったと。その時もレンタル倉庫の整理に来てたとのことで、終活の始まりみたいなものだと言ってた。
最後にあったのは2月頃か、東武練馬のシネコンと同フロアのサブウェイだったかな、映画の合間に食事してたようで、こちらはこれから見に行くところで、すれ違いくらいにあの映画どう?などと話しただけだった。
4月1日まではいつものようにツイートしている。2日に打ち合わせに来ず連絡もないことを不審に思った相手が自宅まで行ってみたら亡くなってたとだけ伝え聞いた。
本を出した頃からそのトークイベントに出たあたりで、かつての何か満たされないものがそうでもなくなってきてたようにも思えたが、どうだったのかな。
東京の大学に行ったもののゴールデンウイークには北九州に帰省して母校の東筑高校文芸部・演劇部に行ってみた。当時の文芸部長女子が『角銅さん聞いて!この人、名前、豊太郎ち言うんよ!」と紹介されたのが新入生で文芸部に入ってきた柴尾豊太郎だった。
実家が酒屋ということでその後帰省したときのOBの飲み会で酒の調達に協力してもらったりした。
数年後、早稲田に進学してきてからは時折麻雀をやってたり。
同じ東上線ということもあり割と会ってたりしたと思う。
そのうちにゲームライターなどの仕事を始めたと聞き、そのころから柴尾英令を筆名としていた。
さらにゲームクリエイターになったときには『レナス』などで少し手伝いもさせてもらった。
パソコン通信やインターネットが広まるとそちらでも交信することも増えた。
住まいの近くにシネコンが出来たということで知人を集めての映画鑑賞会、飲み会も開いていた。毎回参加したわけでもないが、20人近くの映画のチケット抑え、飲み会の予約もし、とけっこう大変なのを楽しんでやってたようだった。
それが回を重ねても何か満たされない物があったように思う。
そのうち映画会はなくなってしまったが、東筑文芸部演劇部の東京にいるものでの飲み会などでも時々集まったりしていた。1999年の2月まだ寒いときに新宿で飲み会して終電過ぎてどうしようというのがLoftPlusOneで今も続くオールナイト怪談トークライブ『新耳袋』の第一回に行くきっかけだった。柴尾もその後二三回来ていたが、新耳袋4巻を一夜で読んだら何か起きたようでそれからは来なくなった。
LoftPlusOneではその後だったか菊地秀行さんのトークライブに柴尾の早稲田ミステリクラブの先輩飯野文彦さんがでるというのでそっちにも行き始めた。そちらも数年すると柴尾は来なくなったがこちらはまだ行き続けてる。
九州で演劇を続けてる後輩の東京公演があるとまた皆で集まって観劇後飲み会をしたりもした。そうしたなかで柴尾よりは一つ上の学年で、アニメの演出をやってた鶴田寛が肺がんで亡くなったのが震災の前年だ。だれも知らないうちに遺体が引き取られてたりしてて葬儀も行けず終いだったので集まって飲んだりするだけだった。生きとるうちにちゃんと会って飲んだりしとかないかんね、と言い合ったものだった。
その頃からTwitterに書いてた映画の感想を水道橋博士のメルマガに連載するようになり、去年はそれが書籍化されトークイベントもやったようだった。たまたま東上線の車内であったのが去年秋。そのトークイベントに出席された斉藤守彦さんが急死されたのがショックだったと。その時もレンタル倉庫の整理に来てたとのことで、終活の始まりみたいなものだと言ってた。
最後にあったのは2月頃か、東武練馬のシネコンと同フロアのサブウェイだったかな、映画の合間に食事してたようで、こちらはこれから見に行くところで、すれ違いくらいにあの映画どう?などと話しただけだった。
4月1日まではいつものようにツイートしている。2日に打ち合わせに来ず連絡もないことを不審に思った相手が自宅まで行ってみたら亡くなってたとだけ伝え聞いた。
本を出した頃からそのトークイベントに出たあたりで、かつての何か満たされないものがそうでもなくなってきてたようにも思えたが、どうだったのかな。
2017/08/10 (Thu)
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のみこちらで継続することにしました。
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